近悳は13歳の時、寛政三博士のひとり柴野栗山(りつざん)の話に深く心を打たれ、大和・畝傍山(うねびやま)にある神武天皇陵を参拝し、そこで「茫々たる麦畑の丘で、蓑笠を垂れ、栗山の詩を吟じて涙する」という意味の自作の漢詩を詠んでいます。
その話とは、「栗山が神武天皇陵の荒廃ぶりを嘆いて、藤原氏を始めその後の権力者達が、自分達の祖先の墓だけを立派にして、天皇陵は一向にかえりみていない(ので嘆かわしい)という意味の漢詩を、時の将軍・徳川家斉(いえなり)に差し出したところ、家斉は憤然としてその座を立ち去ってしまいました。その場にいた側近達はあわてふためきましたが、栗山は一向に動ぜず、君子の過ちは日蝕月蝕のようなものですぐに改められるだろうと言いました。すると栗山の言った通り家斉は再び出座して、当の栗山を褒め、やがて神武天皇陵の修復も命じた」というものです。
この近悳の少年時代のエピソードは、会津藩が保科正之以来、神道の家柄であり近悳自身、この頃には既に徳川宗家の存在と同時に朝廷の存在も重く受け止めていたことを窺わせます。また、後年の京都守護職就任問題に関して、藩主容保に何度も断るようにと意見し、最後は一人になっても自分の説を曲げなかった彼の行動を理解する上でも興味深いものです。 【大和・畝傍山】