ゆかりの人物
会津藩家老西郷頼母をはじめ、数多くの重臣や武士たちが会津の歴史に名を刻みました。会津武家屋敷や藩の歴史に深く関わるこれらの人物たちに焦点を当て、その生涯や功績についてご紹介いたします。
西郷家の人々
西郷家はもともと藩祖 保科正之と同族であり、代々家老職を務める家柄でした。戊辰戦争の折、会津藩は藩主 松平容保の命令に従い、新政府に恭順の意志を示しました。しかし、江戸城無血開城後、奥羽越列藩同盟の中心 会津藩に向けて、新政府は兵をさらに北上させたため、会津藩は藩論を抗戦へと一変、激戦が続くも、慶応4年8月23日ついに敵軍は城下に迫りました。頼母は長男 吉十郎とともに登城する中、屋敷では妻子、一族総勢21名が自刃したのでした。
◆天保元年(1830)~明治36年(1903)
西郷家は、会津藩にあって代々家老職を務める家柄で、その長男として生まれた近悳は文久2年(1862)33歳で家老に任じられた。その年の藩主容保の京都守護職拝命にあたっては、時局の大勢を予見し、「薪を負うて火を救うにひとし」と再三にわたり反対し、職を解かれる。慶応4年(1868)1月、時局の急迫とともに家老に復帰、白河口総督として奮戦するが敗れて帰藩、和議恭順を主張し再び退けられる。鶴ヶ城籠城戦に入っても、頼母の強行な和議恭順説は交戦派から軟弱論として激しい反発を受け、頼母は長男吉十郎とともに城を去り、米沢、仙台、を経て榎本武揚の艦隊に合流、函館で終戦を迎える。
維新後は各地の神社の神官を務め、その一時期、日光東照宮の宮司であった旧主君・容保と運命的な再会を果たす。晩年は故郷若松に戻り、城に近い「十軒長屋」と呼ばれる陋屋に居住し、そこで没する。享年74。
〈西郷頼母を演じた俳優〉・里見浩太朗:『白虎隊』 (1986年 日本テレビ)・小林稔侍:『白虎隊』(2007年 テレビ朝日)・北大路欣也:『白虎隊~敗れざる者たち』(2013年 テレビ東京)・西田敏行:『八重の桜』(2013年 NHK大河ドラマ)
西郷 千重子
◆天保6年(1835)~明治元年(1868)
頼母との間に二男五女をもうけ、良妻賢母のほまれ高く、会津婦人の鑑ともいわれる。慶応8年8月、西軍の城下侵入の際に留守宅を預かる家老の妻として一家の采配をふるい、「敵のはずかしめをうけず」の覚悟から、一族21人と共に自刃した。享年34。なお、白虎隊ただ一人の生存者・飯沼貞吉の実の叔母にあたる。
西郷 四郎
◆慶応2年(1866)~大正11年(1922)
会津藩士・志田貞二郎の三男。戊辰戦争後津川町(現新潟県阿賀町)に一家で移住。のちに頼母の養子として西郷家を継ぐ。明治15年上京し、講道館に入門する。小柄ながら、自ら創案した山嵐の大業を駆使して近代柔道の礎を築き、小説『姿三四郎』のモデルとなった。のち、新聞特派員として大陸で日露戦争・辛亥革命の報道に活躍、孫文らと関係があったといわれる。
幕末〜明治に活躍した会津人
戊辰戦争は1868年 鳥羽伏見の戦いから始まった日本最後の内戦で、旧幕府軍と新政府軍が激しく戦いました。会津は旧幕府軍として最後まで抵抗しましたが、最後には降伏することになります。悲劇で知られる白虎隊や新選組など多くの英雄が活躍し命を落とした戦争です。その後、会津藩は斗南藩3万石(青森県東北部)が与えられ、山川浩をはじめとする沢山の会津藩士とその家族が会津を去りました。廃藩置県後、斗南藩も消滅し、斗南に残る者、会津に帰る者、別の土地に移る者、旧会津藩士とその家族たちは各々の人生を歩み始めます。
松平 容保
◆天保6年(1835)~明治26年(1893)
会津藩九代藩主。美濃高須(岐阜県梅津市)藩主松平義建の6男で、弘化3年(1846)に会津藩主松平容敬の養子となる。文久2年(1862)、混迷する京都の治安維持のため新設された京都守護職就任を敢えて受諾し、激動する政治の真っただ中に身を置く。京都においては、孝明天皇より強い信任を得て諸政策を実施。文久3年(1863)8月には長州派の公家7人を御所より追放(8月18日の政変)、翌元治元年(1864)には勢力の挽回を図って京都に攻め上った長州派を御所、蛤御門で撃退(禁門の変)した。
しかしその後は、薩長秘密同盟の締結、将軍家茂の死(慶応2年7月)、孝明天皇の崩御(慶応2年12月)と、容保を取り巻く政治情勢は悪化の一途をたどる。 慶応4年(1868)正月、薩摩藩の放った一発の砲弾が戦端を開いた。いわゆる鳥羽伏見の戦いである。以来、日本は戊辰戦争という約1年半に及ぶ内乱に突入する。江戸城を無血開城した西軍は、会津を次の標的とした。容保は再三恭順の意を示したがあくまでも武力による会津攻撃を意図する西軍には受け入れられなかった。一か月に及ぶ壮絶な鶴ヶ城籠城戦の末、容保はついに降伏を決意。会津藩は本州最北の地、下北半島に移封となった。明治5年(1872)、謹慎を解かれた容保は、同13年(1880)、日光東照宮の宮司に任じられ、その後いくつかの職を務めた。しかし生涯心は晴れず、唯一「8月18日の政変」の際に下賜された孝明天皇からの御宸翰と歌道に己を見い出しながら沈黙の日々を送った。明治26年(1893)没。享年58。
山川 浩
◆弘化2年(1845)~明治31年(1898)
会津藩家老。慶応2年(1866)樺太境界協議のためロシアへ渡航し見聞を広める。鳥羽伏見の戦いでは敗れた会津藩の負傷兵などを江戸に護送することに尽力。会津に帰藩し、敵軍が包囲する鶴ヶ城に、彼岸獅子を奏でながら無血入城を果たし、その機知を称えられた。のちに男爵、陸軍少将、東京高等師範学校長、貴族院議員などを歴任する。
山川 健次郎
◆安政元年(1854)~昭和6年(1931)
山川浩の弟。15歳で白虎隊に編入されたが、幼少のため除隊。会津戦争後、猪苗代謹慎中に脱走し、新潟で漢学を、佐渡・東京で英語・数学を学んだ。アメリカに留学し、エール大学で物理学を修め、帰国後、我が国初の理学博士となる。東京帝国大学、九州帝大、京都帝大の総長などを歴任し、日本の物理学界、大学教育界に大きな貢献をした。また、つねに会津の汚名を雪ぐ事に努め、『京都守護職始末』や『会津戊辰戦史』などを編纂し、明治維新における会津藩の立場を明らかにした。
山川 捨松
◆万延元年(1860)~大正8年(1919)
山川浩・健次郎の妹で、幼名は咲子。明治4年(1871)、日本初の女子留学生として、津田梅子(津田塾大学創設)ら5名の少女と共に渡米、名門女子大バッサーカレッジに学んだ。11年間の留学生活を終え帰国したのち、陸軍卿大山巌と結婚、留学経験を生かして鹿鳴館などで活躍し、「鹿鳴館の華」と称えられた。
女子留学生と「捨松」という名の由来
明治4年(1871)、岩倉具視を全権大使とする欧米使節一行が横浜港を出航。津田梅子ら幼い5人の少女が含まれていました。それは北海道開拓使次官・黒田清隆が「優秀な人材は賢い母から生まれる」という考えのもとに募集した日本人初の女子留学生達でした。
このとき、捨松の母唐衣は、お国のために娘を「捨てたつもりで待つ」という親心をこめて咲子という幼名を「捨松」と変えて、遥か遠い異国の地・亜米利加へ旅立たせたのでした。
会津藩家老
佐川 官兵衛
◆天保2年(1831)~明治10年(1877)
会津藩家老。文武両道に秀で、会津藩の京都守護職時代には学校奉行、別選組隊長、諸生組隊長であった。慶応4年の鳥羽伏見の戦いでは、敵弾が命中してもひるまず突進。その勇姿を見て敵、味方双方から「鬼官兵衛」の異名をもらった。明治10年の西南戦争では、豊後口警視隊の小隊長として参戦。同年3月18日、阿蘇山麓の黒川村で凄絶な戦死を遂げた。
秋月 悌次郎
◆文政7年(1824)~明治33年(1900)
藩主松平容保の京都守護職就任とともに京都へ赴き公用人として各藩士との親交を深めた。特に文久3年(1863)の8月18日の政変の成功は彼の功績が大きい。戊辰の役では副軍事奉行として活躍、鶴ヶ城開城時の使者の任務を見事に果たした。明治になり、文部省の役人などを経て熊本五高(現熊本大学)の教授となった。当時同僚の教師だったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、彼の高潔な人柄を「神のような人」と言って讃えている。
山本 覚馬
◆文政11年(1828)~明治25年(1892)
八重の兄。文政11年(1828)若松城下に会津藩砲術指南・山本権八の子として生まれる。幼少時より文武に秀で22歳の時、藩命により江戸、佐久間象山の塾で学び、蘭学や洋式砲術の知識を深めた。28歳で日新館教授を務め、さらに蘭学所を開設、軍事取調役兼大砲頭取に抜擢される。文久2年(1862)松平容保の京都守護職就任とともに上洛、禁門の変で功があった。しかしこの頃より眼病を患い、鳥羽伏見の戦い後に捕らえられ薩摩藩邸に幽閉される。この時獄中で口述筆記させた政経書「管見」が薩摩藩に認められ京都府顧問となり、以後京都府議会議長、京都商工会議所会頭などを歴任、京都の近代化に力を尽くした。明治25年(1892)永眠。享年65。
山本(新島) 八重
◆弘化2年(1845)~昭和7年(1932)
会津藩砲術指南山本権八、母佐久の子として生まれる。兄に蘭学者で近代京都の発展に貢献した山本覚馬がいる。鶴ヶ城籠城戦の際には男装し、新式の七連発銃を担ぎ、砲兵隊に加わり奮戦。開城の前夜、自分の笄(こうがい:髪をかき上げる道具)で『明日の夜は、何国の誰か眺むらん 慣れし御城に残す月影』という和歌を城壁に刻んだ逸話は有名である。戦後は兄を頼って京都に赴き教師となる。明治9年(1876)、新島襄(同志社大学創立者)との結婚を機にキリスト教の洗礼を受ける。
明治23年(1890)夫が病没すると、その年に日本赤十字社の正会員となり、日赤篤志看護婦人会に名を連ねる。日清、日露戦争では篤志看護婦を率いて救護活動にあたり、その後も社会福祉事業に貢献。功績により昭和3年(1928)、昭和天皇の即位大礼の際に、皇族以外の女性では初めて銀杯を下賜される。また、同年の秩父宮勢津子妃のご成婚の際には『ご慶事をききていくとせかみねにかかれるむら雲のはれて嬉しきひかりそを見る』という歌を詠んでいる。昭和7年(1932)、自宅にて死去。享年86。
中野 竹子
◆弘化4年(1847)~慶応4年(1868)
会津藩士中野平内の長女で江戸に生まれる。赤岡大助に薙刀を習い、学問も修めた才女であった。父が江戸詰勘定役であったため江戸に住んでいたが、戊辰戦争が起こると江戸藩邸を引き払って会津に帰り坂下に住む。竹子はそこで母孝子、妹優子とともに子供たちを集めて塾を開いた。
慶応4年(1868)八月二十三日、西軍が城下に迫り戦火が激しくなると、竹子は藩主容保の義姉照姫が坂下に落ちのびたとの情報のもと、孝子、優子らとともに駆けつけたが誤報であることが分かり、翌日若松城下に戻る途中、湯川に架かる柳橋(涙橋)付近で敵軍と遭遇、奮戦するも敵弾に倒れる。彼女たちの勇敢な戦いぶりは『娘子軍』として現在に語り継がれている。
柴 四朗
◆嘉永5年(1852)~大正11年(1922)
会津藩の京都守護職拝命時には15歳で京都に赴き、鳥羽伏見の戦いを経て、鶴ヶ城籠城戦にも加わった。また、明治10年西南戦争では山川浩らとともに、別動隊として参戦した。明治12年渡米し、ハーバード、ペンシルバニア両大学で政治学と経済学を学び、明治18年に帰国。同年10月に滞米中に想を得た政治小説「佳人の奇遇」を「東海散士」のペンネームで発表し、当時の憂国の青年達に大きな影響を与えた。明治25年、衆議院選挙に当選、以後大正4年まで代議士を務め、「岩越鉄道(磐越西線)」の開通など、会津の発展に多大な貢献をした。
柴 五郎
◆安政6年(1859)~昭和20年(1945)
柴四朗の実弟。会津戦争の際、母や妹が自刃するという悲運に遭い、8歳で斗南(となみ)(下北半島)に移住。悲惨な開拓生活を経験する。明治6年上京し、陸軍幼年学校から士官学校へと進み、明治12年砲兵少尉に任官する。明治33年の北清事変の際、北京大使館付武官として北京籠城戦の総指揮をとり、欧米・日本八カ国連合が到着するまでの五十余日間の籠城戦に耐え抜き各国の賞賛をあびた。大正8年には、福島県人としては初めての陸軍大将となった。
瓜生 岩子
◆文政12年(1829)~明治30年(1897)
喜多方の油商渡辺利左衛門の長女。9歳の時、父親が急死、その後家が焼失したため母の実家である熱塩に身を寄せ、母方の瓜生姓を名のる。17歳で佐瀬茂助(さぜもすけ)と結婚、一男三女を儲ける。34歳の時、夫が病没。その痛手から立ち直るにつれて慈善活動に専心するようになる。戊辰戦争では、敵味方の区別なく救護活動に取り組む傍ら、幼い子供達のために幼学所を設立。その後も堕胎防止、貧民、孤児救済に励み、その生涯を社会福祉活動に捧げた。
若松 賤子
◆元治元年(1864)~明治29年(1896)
会津藩士・嶋田勝次郎の長女で、本名は甲子(嘉志子)。会津落城後、横浜の織物商山城屋の番頭大川甚兵衛の養女となり、横浜フェリス女学院に学ぶ。卒業後、母校で生理学、健全学、家事経済、和文章訳解を教授する傍ら文筆活動に励む。明治22年、巌本善治(いわもとよしはる)と結婚。翌年、アメリカの女流作家バーネットの「リトル・ロード・フォントルロイ」を「小公子」の名で翻訳し一躍有名となった。明治期における代表的な英文学の紹介であった。明治29年、肺結核のため死去。享年31。
海老名 リン
◆嘉永2年(1849)~明治42年(1909)
会津藩士日向新介(ひなたしんすけ)の娘。17歳で海老名季昌(えびなすえまさ)(家老・後に若松町長)と結婚。会津藩の斗南移封に伴い青森に移り、生活苦と戦った。夫季昌について上京した際にキリスト教に接し、洗礼を受け熱心な信者、社会活動家となる。保母の資格の取得した後帰郷。明治26年(1893)に私立若松幼稚園と私立若松女子校を設立。戊辰戦争後の荒廃した会津において、幼児・女子教育の先駆者である。
会津の基礎を築いた会津の偉人
保科 正之
◆慶長16年(1611)~寛文12年(1672)
会津藩祖。二代将軍徳川秀忠の第四子として生まれ三代将軍家光の異母弟にあたる。幼少時代に信州(長野県)高遠三万石、保科正光の養子となり成人後、出羽山形二十万石を経て寛永20年(1643)会津二十三万石を領する。正之は清廉謹直な性格で、実兄である家光に私心なく良く仕えたので、家光も正之を信頼しその臨終にあたって、正之一人を病床に呼び、徳川宗家の将来を託した。
家光の死後、正之は甥にあたる幼い四代将軍家綱を後見して幕政に参画。政治の基本方針を武断政治から文治政治に改め、江戸の慢性的な水不足解消のため玉川上水を開削、人道的な立場からの殉死の禁止、大名証人制度の廃止、増え続ける浪人対策として末期養子の禁の緩和など数々の善政を断行し、その後の徳川幕府の安定に大きな貢献をした。
正之は、その生涯の殆どを江戸で過ごしたが、国元会津の藩政にも力を注ぎ、藩の制度と民政、さらに藩風の基礎を確立させた。特に彼の制定した「家訓十五箇条」は会津藩の藩是としてその後の歴代藩主に受け継がれていった。
また正之は、当時一流の学者としても知られ『玉山講義附録』『二程治教録』『伊洛三子伝心録』など優れた朱子学研究書も残している。
松平 容頌
会津藩五代藩主。寛延三年(1750)七歳で藩主となり、在位五十五年。歴代藩主の中では最も長い。天明の大飢饉後、田中玄宰(はるなか)を家老に抜擢し、その建言によって藩政の改革を断行、会津藩中興の祖といわれる。軍制の改革、地場産業の振興、藩校日新館の創設など諸改革を実行し、会津藩を全国有数の雄藩とした。
田中 玄宰
◆寛延元年(1748)~文化5年(1808)
会津藩家老。天明の大飢饉後の藩政の建て直しのため、諸制度の大改革を推進した。その内容は、武備の充実、学術の振興、産業の奨励など多岐に及び、大きな成果を上げ、会津に名家老・玄宰ありと讃えられた。玄宰は容頌、容住、容衆と三代の藩主に仕え、その死に臨み「我が骨は、城楼と日新館の見えるところに埋めよ」と遺言した。墓は城の東南、小田山の山頂にある。