シリーズⅠ 「西郷頼母ってどんな人」⑨
この時の会津藩主は、徳川御三家の筆頭・尾張の支藩であった美濃高須(現・岐阜県海津市)から養嗣子となっていた容保(かたもり)でしたが、この重責を担うにはまだ若く、その任に耐えずとして何度も辞退しました。
会津は京にあまりにも遠く、殆どの藩士たちにとって未知の地である場所での治安警備は苦労の上に、莫大な費用が掛かってしまいます。
しかし幕府からの説得は執拗で、「会津公は一身の安全のみを考えているのではないか。御家の家訓には徳川宗家の命には、絶対に従わなければならないという条項があると聞く」と、藩祖(初代)保科正之の定めた家訓までを持ち出してその就任をもとめてきました。
どうしても断りきれない事を悟った容保と江戸詰めの重臣たちは、この正之の遺訓に従って「君臣唯京師の地を以って死所となすべきなり」と決心し、正に火中の栗を拾う役目とも云うべき京都守護職の就任を受けることにしたのです。
【松平容保】