ミニ歴史講座14

シリーズⅠ 「西郷頼母ってどんな人」⑭

頼母が自ら語る、罪なくして配所の月をながめていた謹慎生活は、文久3年(1863)暮れから慶応4年(1868)初頭までの5年間でした。
その間京都での会津藩は、元治元年(1864)7月、御所に武力で迫った長州軍を薩摩藩らと連携して撃退した禁門の変を境に、会津藩を取り巻く政治的状況は悪化の一途をたどります。
第一次長州征討の不徹底(慶応元年正月)、薩長秘密同盟の締結(慶応2年1月21日)、将軍家茂の死(慶応2年7月20日)、孝明天皇の崩御(慶応2年12月25日)、そしてついに慶応4年(1868)正月3日、薩摩藩の放った一発の砲弾によって、一年半に及ぶ内乱(戊辰戦争)の先端が開かれます。
あくまでも武力によって政権奪取しようと謀る薩長を中心とする軍事同盟は、将軍徳川慶喜の謹慎と江戸城無血開城によりその矛先を失ってしまったため、会津藩をその標的とし会津征討を決議。白河、越後、日光方面から会津を攻略する態勢がしかれます。

【錦絵 城州於伏見戦争之図】
photo03139

ピックアップ

グループ施設