ミニ歴史講座13

シリーズⅠ 「西郷頼母ってどんな人」⑬

京都守護職の受諾を認めることが出来なかった頼母は、会津藩が上洛した後も京都には赴かず国元に戻っていましたが、その反対の意志を捨てたわけではありませんでした。
文久3年9月、頼母は意を決して再び容保に守護職の辞任を迫るために京に上りました。会津藩が本陣としていた黒谷・金戒光明寺で藩主・容保と体面した頼母は
「江戸のみならず京都まで人を出して以来、国元の財政は火の車となり、このままでは藩の存続自体も危なくなってしまう」と主張し、京都からの即時、全軍撤退を求めました。
しかし、長州派公家を御所より追放して会津藩の実力と名声が京の巷に知れ渡り始めた矢先の容保や京詰めの重臣達にとって、頼母の意見は到底受け入れられるものではありませんでした。
次第に語気を強めてどうしても引き下がらない頼母に対し、とうとう激怒してしまった容保は、頼母に「御免お叱り」を言い渡します。これは家老職を辞して反省せよという意味で現在の「懲戒免職」に当る厳しい処分です。
失意の内に会津に戻った頼母は、家族と離れて城下郊外の長原村に「栖雲亭(せいうんてい・雲に栖(す)むの意)」と自ら名付けた陋屋(ろうおく)を立て、一人謹慎生活に入ります。

【現在の会津若松市長原地区】
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