ミニ歴史講座12

シリーズⅠ 「西郷頼母ってどんな人」⑫

文久3年(1863)7月30日、松平容保と会津藩士達は、織田信長以来と云われる馬揃え(軍事教練)を京都御所、建春門前で孝明天皇に披露しました。容保の指揮のもと、一糸乱れぬ動きを見せる藩兵達の様子をご覧になった天皇は深く感じ入り、その所望により、8月5日には再び馬揃えを天覧に供したほどでした。この事により、天皇の容保に対する信頼は益々厚くなっていきました。
また容保と会津藩は、同年8月18日、三条実美ら尊皇攘夷(権力を幕府から取り戻し外国勢力を打ち払う)を唱える長州派公家7人を薩摩藩と連携して御所より追放することに成功します。
孝明天皇の政治的立場は、あくまでも幕府と朝廷が力を合わせて政治を行っていく(公武一和)という考え方であったため、天皇を取り巻く長州の息の掛かった公家達に対し不快の念を抱いていたのです。この政変の成功を喜んだ天皇は容保に対してその働きぶりを讃えた、直筆の手紙と和歌を下されたほどでした。
京都守護職就任にあくまでも反対し、国元に戻っていた頼母が、再び守護職の辞任を進言するため、京都に赴いたのは容保と天皇の信頼関係が絶頂に達していたこの時期でした。

【会津・薩摩の提携と三条ら七卿の都落ちの図 長谷川恵一画】 
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