ミニ歴史講座10

シリーズⅠ 「西郷頼母ってどんな人」⑩

藩主・松平容保が京都守護職就任の意を固めたという知らせは、会津の国元にも届けられました。驚いた頼母はその意思を思い止まらすべく同僚の家老・田中土佐とともに江戸に向けて早馬を走らせました。
容保と対面した頼母は、京都は会津から余りにも遠く一千名からの藩兵を駐屯させるには莫大な費用を必要とする上に、現在の京都の情勢において、幕府と朝廷の間に立って大任を果たすことは到底困難な業であり、まさに「薪を背負って火を救う」に等しいと主張して強く反対しました。
しかし、会津公は自らの保身しか考えていないのかと、家訓まで引き合いに出されての幕府からの執拗な説得で、引くに引けない状況までに追い込まれていた容保には、頼母の意見を到底受け入れることは出来ませんでした。
二人の激論は長時間続きましたが、話し合いはとうとう物別れに終わり、その年の12月,容保は一千名の藩士を引き連れて上洛を果たすことになるのです。

【守護職辞退を進言する頼母の図 長谷川恵一画】
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