ミニ歴史講座8

シリーズⅠ 「西郷頼母ってどんな人」⑧

ペリー艦隊の来航(嘉永6年)による日米和親条約の締結以来、幕府は欧米列強からの開国を求める圧力に押され続け、徐々にその力の無さを露呈させ始めます。
安政5年、幕府の権威を回復すべく大老に就任した井伊直弼は、それまで二百年続いた幕府の祖法を破り、朝廷からの勅許を得ないままに諸外国と通商条約を結び反対勢力を徹底的に弾圧します(安政の大獄)。 しかしこれを不満とした水戸浪士達により、直弼は江戸城桜田門において斬殺されてしまいます。いわゆる桜田門外の変です。この事件は幕府の威信をさらに失墜させた上に、尊皇攘夷を唱え幕府批判を展開する志士と称する脱藩浪士達の台頭を許してしまいます。そしてこのような内外の緊張と混乱が一点に集中したのが王城の地・京都でした。
近悳が家老に就任した時期の京都は、尊攘派浪士の無謀極まる狼藉が横行し治安は乱れきり、それまでの幕府の機関であった京都所司代や町奉行所では到底鎮めることは出来ない状態に陥っていたのです。
そんな京都の治安の回復をはかるため、幕府は『京都守護職』を新設することとし、その就任を会津藩主・松平容保に求めてきたのです。                     【現在の桜田門】
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