ミニ歴史講座7

シリーズⅠ 「西郷頼母ってどんな人」⑦

天保14年(1843)、近悳は14歳で初出仕をはたし、間もなく近習の責任者である側役御小姓頭を拝命します。
結婚は22歳になった嘉永4年(1851)で、会津藩士飯沼久米之進一孝(450石)の次女千重子(17歳)を娶り、二男五女に恵まれます。ちなみに千重子の兄・時衛一正は、自刃した白虎士中二番隊唯一の蘇生者・飯沼貞吉の父で、千重子は貞吉の叔母にあたります。近悳は28歳になった安政4年(1857)、病のため休職した父・近思に代わって家の世襲名である『頼母』を名乗り家督を相続、文久2年(1862)7月には西郷家の歴代当主と同様、国家老に就任します。(33歳)
ここまで彼の人生は、名門西郷家の長男として生まれた近悳にとって祖父や父同様、順風満帆なものでした。しかし近悳のその後の人生は父や祖父たちとは全く別のものとなってしまいます。
近悳が家老となった直後、会津藩の運命を一変させる藩主容保の京都守護職就任問題がおこるのです。

    【西郷千重子肖像 広田修也画】
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