ミニ歴史講座4

シリーズⅠ 「西郷頼母ってどんな人」④

今回はなぜ姓が保科から西郷にかわったかについてご説明します。
保科家は、初代・保科正近が亡くなる前にその息子、2代正長が病死してしまいます。正長には生まれたばかりの遺子・九十郎がいましたが、赤子だったため無事成長するかどうか分かりませんでした。そこで九十郎が成人しないで死んでしまった場合に備えて、正長の妹とその夫・西郷房茂の次男・近房を養子に迎え、さらに正長の3番目の妹の女子を近房にめあわせ(従兄妹合わせ)保科家の血を存続させる体制がとられます。
しかし幸い、実子・九十郎が無事成長したので、近房は全知行を九十郎に譲り渡し、新たに500石を拝領、分家して実父の姓である西郷を名乗ります。(本家の保科姓を名乗ることを遠慮して)
成人した本家の九十郎は保科民部正興と名乗り、しばらく藩政の中枢にありましたが、政治に私心を交えたという罪で鹿瀬水沢(現新潟県阿賀町)に流刑となり、その地で没したため保科家は断絶してしまいます。このことにより、いったん正興に本家を譲った近房が保科家の本流となり、加増2500石、代々家老筆頭を務める家柄となりました。

    【保科正興の墓 新潟県阿賀町】
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