ミニ歴史講座3

シリーズⅠ 「西郷頼母ってどんな人」③

会津藩祖・保科正之は、二代将軍徳川秀忠と奥女中であったお志津との間に生まれました。(三代将軍家光の異母弟にあたる)しかし恐妻家であった秀忠は、正妻・於江与の方の嫉妬を恐れて正之の出生をおおやけにせず、時の老中土井利勝を通じて、武田信玄の娘であった見性院、信松院姉妹にその養育を託しました。
正之が成長するにつれ、将来の身の上を案じた姉妹は、旧武田家の家臣であった信州高遠2万5千石の城主・保科正光に養子として預けます。
将軍家の血筋である正之を引き取った正光は正之の教育と輔弼(補佐すること)役として、筆頭老臣であり、かつ自分の叔父でもあった保科民部正近を任命します。
誠実な人柄の正近は、その負託(任せること)に見事に答え、正之を立派に成人させた上に、出羽山形を経て会津23万石に移封される間、生涯彼を支え続け御家司として会津藩の基礎を築き上げました。
会津・西郷家はこの正近から始まります。この後の西郷家は会津家中において藩主の養父(保科家)と祖を同じくする特別な家柄として重きを成し、幕末の近悳まで続いていきます。

               【保科正近の墓 善龍寺】
photo03034

Top